2010年 06月 06日
Ⅱ 公私一体の宮司 平成4年4月、靖国神社第7代宮司として、熊本県本渡諏訪神社宮司であった 大野俊康が就任。 大野は、熊本県神社庁長などを歴任した神社界の重鎮で、軍歴もあることから 神職の世界にとっては適任者。 しかし、靖国神社は神社界では極めて特殊な存在で、全国の神社を包括する 神社本庁と友好なる関係を維持しつつも、その傘下には入っていない。 それは、政治と宗教の関わりにおいて、最も象徴的な存在である為、敢えて本庁に 属さず単立の神社との立場を守っている。更に、それは国内だけでなく、外国からの政治的攻撃対象ともなってきた為でもあった。 このような背景もあり、靖国神社の先の二代の宮司はどちらも神社界出身ではない。 先々代は旧華族・筑波藤麿。 そして、先代宮司は、幕末期の名君として誉れ高い越前の松平春 公の直孫にして、松平慶民元宮内大臣の長男松平永芳。 戦時は海軍士官、そして戦後は陸上自衛官であった人である。 大野は、神社人としては久し振りの靖国神社宮司であった。 更には、大野自身が述懐しているように「熊本天草の田舎神主が、政治的にも難しい舵取りを求められる靖国神社宮司に 就任することなど思いも寄らないこと」ではあったが、松平から大野への交代は、その大きく異なる経歴を微塵も感じさせないほどに、 戦没英霊の慰霊顕彰という理念に貫かれていた。 しかし、ただ1点、どちらも遺族崇敬者の心に添うことを第一としながらも、表層にあらわれる関わり方が大きく違っていた。 松平は公私の区別を厳格に求め、遺族や崇敬者との関わり方においても明確な規範を己に課し、その距離感は実に公平なものであった。 よって、判断には一切の偏りなく、時の総理大臣の意向といえども、世に阿るものと断ずれば迷いなくこれを突っぱねるだけの気骨をも示した。 ところが一方、大野は遺族や崇敬者との関わり方において、一旦これをと思うと、靖国神社宮司の袴を脱ぎ捨て、 一人の遺族として、戦友として、日本人として御社を訪ねる人々と腹蔵無く語り合い心から交流するのである。 それは、神社の中だけにとどまらず、時には職舎へと招待し天草から送られた海の幸で持てなしたり、それぞれの縁りの地へと出かけ、 その風土の中にあって心から話し合い信頼を築いていった。 それは正に、最も日本人らしいと評される熊本県の中にあっても、一層地域の絆の深い天草の地にあって、夫婦家族が一体となって神社を守り、 氏子と一つになって祭祀を伝えてきた神社人の良さが、そのまま人柄となって溢れた大野であれば当然のことであった。 公も私も無い。ありのままの大野俊康という宮司が、遺族と交流するのであった。 郷土の鎮守様の宮司と、旧官舎の宮司の在り方は自ずと違う。等といった理屈からの批判も事実、神社内外にあったのである。 しかし、大野は意に介しておらず。「公私の区別がない」などと指摘されても、公私一体の自分自身そのものに区別などないのだから、 本人にとっては当然のことであったろう。 そんな人柄の大野俊康宮司と遺族・崇敬者との交流の中から、「虎乗り鐘馗」年賀状も生まれていったのである。 (写真は、田原市:巴江神社境内にある護国神社)
by takoaosu
| 2010-06-06 21:49
| 田原凧保存会
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